
入学式の校門で、僕は「お父さん」になる
校門の前で、僕はネクタイを締め直した。 隣にいる女性——仮にユキさんとしよう——が、小さな声で言った。「すみません、もう一度だけ確認させてください。娘の名前は——」 「ミウちゃんでしょう。大丈夫ですよ」 ユキさんは頷いた。でもその手は震えていた。新品のハンドバッグの持ち手を、白くなるほど握りし...

「お父さん、来てくれてありがとう」が聞こえなくなる日
体育館の折りたたみ椅子に座ると、背中にかすかな冷たさが残っていた。三月の体育館は、暖房が入っていても底冷えする。隣に座った母親が小声で「緊張します」と言った。僕は笑って「僕もです」と返した。嘘じゃない。何度経験しても、卒業式には独特の緊張がある。

一人で歌えない歌がある
「一緒にカラオケに行ってくれませんか」 電話の向こうの声は、かすれていた。咳払いをしたわけでもない。ずっとそういう声なのだと、後でわかった。使っていない声は、こうなるのだと。 依頼者は佐々木さん。六十一歳、男性。三月の初め、まだ風が冷たい日...

木曜日のやかんが沸く音
毎週木曜日の午前十時、僕は杉並区のあるアパートの前に立つ。築四十年を超える二階建ての、一階の角部屋。表札には「中村」と書かれているが、もうずいぶん前から中村さん一人しか住んでいない。インターホンを押す。五秒ほどして、スリッパを引きずる音が聞こえ...

乾杯の音が届かない友人へ——新年最初の結婚式で、僕は「親友」になった
グラスを持つ手が、かすかに震えていた。 百二十人の視線が僕に集まっている。新郎のタカシさんは高砂席から、少し不安そうな、でもどこか安堵したような顔でこちらを見ていた。僕はマイクの前に立ち、息を吸った。一月の冷たい空気が、ホテルの宴会場にもどこ...

クリスマスの夜、演じる男
イブの夜、僕はケーキを二つ持っていた。 一つは午後五時に届ける分。もう一つは午後八時。別々の家庭に、別々の「夫」として帰る。十二月二十四日という日は、僕にとって一年でもっとも長い一日になる。電車の中でネクタイの色を変え、左手の薬指の指輪を付け...

踏み台でいい——僕が続ける理由
。 十一月の日曜日、僕は公園のベンチに座っていた。隣には小学三年生の男の子。仮に「ユウキ」としておく。ユウキは膝の上にどんぐりを三つ並べて、黙ってそれを転がしていた。 「ねえ、お父さん」 ユウキが言った。 「お父さんって、いつか来なくなる?...

運動会で声を枯らす男
「お父さん、見てた? 見てた?」 息を切らして走ってきた男の子が、僕のジャージのすそを引っ張る。リレーでアンカーを任されて、最後のカーブで一人抜いた。僕はさっきまで声を張り上げていたから、喉がひりひりする。「見てたよ。最後のカーブ、すごかった...

「すみません」を届ける仕事——謝罪同行の現場から
九月の、まだ残暑が肌にまとわりつく午後だった。 待ち合わせ場所のファミレスの駐車場で、依頼者の中村さん(仮名・40代男性)は車のエンジンを切ったまま、ハンドルを握りしめていた。僕が助手席に乗り込むと、彼はこちらを見ずに言った。 「石井さん、...

盆提灯の明かりの向こうに立つ僕は、誰なのか
線香の煙が、まっすぐ天井に向かって昇っていた。 仏壇の前に正座して手を合わせている僕の隣で、七十八歳の佐久間節子さんが「あなた、お義父さんにちゃんとご挨拶してね」と小さく言った。僕は「はい」と答え、目を閉じた。遺影の中の男性の顔を、僕は知らな...

自由研究の隣に座る、知らない父親のこと
「お父さん、ここがわかんない」 小学三年生の男の子——仮にユウタくんとする——が、算数ドリルを開いたまま、鉛筆の先を噛んでいた。僕はその隣に座って、23×4の筆算を一緒にやっていた。たったそれだけのことだ。たったそれだけのことが、この家にはな...

雨粒のように透明な感情——「本物」とは何かを、梅雨の現場で考える
六月の日曜日、朝から雨だった。 僕はその日、ある運動会に「父親」として参加する予定だった。小学三年生の男の子、コウタくん。彼の母親である依頼者の佐藤さんから連絡が来たのは、前日の夜遅くだった。「明日、雨でも体育館でやるそうです。お願いします」...

カーネーションの隣に立つ夫——母の日に届けるもう一つの感謝
。 「あなた、今年も忘れなかったのね」 義母の顔がほころんだ。僕の手にはピンクのカーネーションの小さな鉢植え。隣では依頼者の佐々木真奈美さん(仮名・40代)が、少しだけ肩の力を抜いたように微笑んでいた。 五月の第二日曜日。母の日。世の中にはた...

入学式の朝、僕はネクタイを3本持っていく
朝の6時半、スマートフォンが鳴った。画面には「田村様」と表示されている。今日の依頼者だ。 「すみません、石井さん。息子が『お父さん、今日はどんなネクタイ?』って聞いてきて……紺色でお願いできますか」 僕は「わかりました」と答えて、すでにカバ...

卒業証書よりも重い、たった一言の「ありがとう」
体育館の扉を開けた瞬間、式場に響いていたのは『旅立ちの日に』のピアノ前奏だった。パイプ椅子がきれいに並んだ保護者席の後方に、僕は静かに腰を下ろす。胸ポケットには「佐藤」と書かれた名札。今日の僕の名前だ。 三列ほど前に座っている女性――依頼者の...

2月14日、僕は「夫」として chocolate を受け取る
「はい、これ。毎年ありがとう」 仮名で美咲さんとしよう。彼女はキッチンに立ったまま、小さな紙袋をこちらに差し出した。リビングでは小学3年生の娘がテレビを観ている。僕は「ありがとう、今年も手作り?」と笑い、紙袋を受け取った。中にはガトーショコラ...

元日の朝、僕は三つの家の「お父さん」だった
元日の朝、僕のスマートフォンには三件のメッセージが届いていた。 「あけましておめでとう、お父さん!今年もよろしくね」——中学二年生のユキちゃんからだった。絵文字が三つ並んでいる。犬と、門松と、ハートマーク。僕は「おめでとう。今年も頑張ろうな」...

クリスマスの夜、演じる男
イルミネーションが街路樹を覆い尽くす十二月の夜、僕はスーツの胸ポケットに小さなメモを忍ばせていた。「長女・美咲、8歳。好きなキャラクターはすみっコぐらし。次女・結衣、5歳。最近ハマっているのはプリキュア。妻役の依頼者・恵さん、36歳。長女の前で...

踏み台でいい——僕が続ける理由
十一月の日曜日、僕は公園のベンチに座っていた。隣には小学三年生の男の子。仮に翔太くんとする。翔太くんは膝の上に乗せたどんぐりを一つずつ並べながら、突然こう言った。「お父さんは踏み台になってくれる?」 高い木の枝にぶら下がっているビニール袋を取...

運動会で声を枯らす男
「パパ、来てくれたんだ」 校庭の入り口で、赤い帽子をかぶった小学三年生の男の子——仮にユウタとする——が僕を見上げた。目が丸くなって、それから少し潤んで、最後にくしゃっと笑った。その表情の変化は、たぶん二秒もなかった。でも僕はその二秒を、何年...

家族の間に立つということ——秋の訪問者
九月の初め、まだ残暑が肌に張りつくような午後だった。僕のスマートフォンが鳴った。画面に表示されたのは、登録のない番号。出ると、女性の声がした。五十代くらいだろうか。少し震えていた。 「あの……人を、貸してもらえるんですよね」 こういう電話は...

叱られたい大人たち——誰にも怒ってもらえない孤独について
。 「僕のこと、本気で叱ってください」 今年の8月、うだるような暑さの中、都内のファミレスで向かい合った男性——仮に高木さんとしよう——は、アイスコーヒーのグラスを両手で包みながら、そう言った。34歳。IT企業の中間管理者。身なりは整っていて、...

自由研究の横に座る、他人の僕
麦茶の結露がテーブルに丸い跡をつくっていた。 その日、僕は小学5年生の男の子——仮にユウタとしよう——の隣に座って、夏休みの自由研究の計画表を一緒に眺めていた。テーマは「氷の溶け方を調べる」。砂糖水、塩水、ただの水。それぞれ製氷皿で凍らせて、溶ける速さを比較するという、シンプルだけどちゃんと理科に...

昆虫の標本と、僕が「父親」になった夏の午後
「お父さん、このセミ、オスかメスかわかる?」 ユウキくんは虫かごを僕の顔の前に突き出して、目をきらきらさせていた。小学三年生。汗だくの額に髪の毛が張り付いている。七月の公園は容赦なく暑かった。僕はしゃがんで虫かごを覗き込みながら、正直に「わか...

新郎側53名、全員が赤の他人だった六月の結婚式
六月の披露宴会場は、白いクロスと紫陽花の装花で埋め尽くされていた。新婦側のテーブルには、幼馴染、大学の同級生、職場の先輩後輩、親戚のおじさんおばさん。笑い声が絶えない、賑やかな一角。対して新郎側。上司役、同僚役、大学時代の友人役、従兄弟役、叔父...

雨粒は嘘をつかない——「本物の感情」についての覚え書き
先週の土曜日、ある少年の中学校の運動会に行ってきた。 彼の「父親」として、もう六年になる。仮に、タケルとしておく。小学四年生だったタケルは、今年で中学三年生になった。背は僕をとっくに追い越している。声変わりもした。でも、リレーでバトンを受け取る直前にこっちをちらっと見る癖だけは、六年前と変わらない...

カーネーションを買う理由を、僕は知らない
花屋の前で、僕は立ち止まった。 五月の第二日曜日。店先には赤やピンクのカーネーションが溢れていて、小さな子どもが父親の手を引っ張りながら「ママにこれ!」と指差している。微笑ましい光景だ。でも僕がこれから届けるカーネーションは、そういう物語の中にはない。 依頼者の名前は仮に「恵子さん」としておく。...

母の記憶の中にいる息子になる
五月の連休が明けた火曜日、僕は東京から電車を二本乗り継いで、ある団地の三階に向かった。エレベーターのない古い建物で、外階段のコンクリートには苔が薄く張りついている。踊り場に置かれたプランターには、誰かが植えたらしいペチュニアが咲いていた。ドアの...

入学式の朝、僕はネクタイを三本持っていく
朝六時半、スーツに袖を通す。紺のネクタイ、グレーのネクタイ、えんじ色のネクタイ。三本をカバンに入れる。今日は入学式が二件。午前と午後で、僕は別々の家族の「父親」になる。 一件目の依頼者、小山さんは三十四歳のシングルマザー。息子の悠太くんが今日...

35人の子供たち
昨日、新しい家族との初回面談がありました。4歳の女の子が僕を見つめる瞳の純粋さに、改めてこの仕事の重さを感じています。

いつか来る真実
6歳の息子にこう聞かれたとき、言葉が出ませんでした。嘘をつくことの罪悪感と、この子を守りたい気持ちの間で揺れ動いています。

8年間の父親
今年も3万人以上の方が孤独死されるという統計を見ました。私たちのサービスは根本的な解決にはなっていない。でも今、必要としている人がいる。

学校行事という試練
今日もまた、依頼者からプロポーズされました。「本気で結婚したい」と涙を流す彼女を見て、職業として線を引くことの難しさを痛感しました。
"現場で感じたことを、そのまま言葉にする。石井裕一 - 人間レンタル屋
それが誰かの心に響けば幸いです。"