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入学式の朝、僕はネクタイを三本持っていく

2024年04月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

朝六時半、スーツに袖を通す。紺のネクタイ、グレーのネクタイ、えんじ色のネクタイ。三本をカバンに入れる。今日は入学式が二件。午前と午後で、僕は別々の家族の「父親」になる。

一件目の依頼者、小山さんは三十四歳のシングルマザー。息子の悠太くんが今日、小学校に入学する。「お父さんがいないのは、うちだけかもしれない」。電話口の小山さんの声は、静かだった。泣いてはいなかった。泣かないように話しているのが、わかった。

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僕はこの仕事を始めてから、四月がいちばん忙しい。入学式、入園式。家族が揃って並ぶ行事。そこに「空席」があることの重さを、多くの母親が知っている。

入学式の朝に母親が怖がっていること

小山さんが怖がっていたのは、悠太くんが傷つくことだった。自分が傷つくことではない。「周りの子がパパと手をつないで歩いているのを見て、悠太が何か感じるんじゃないか」。その一点だけが、彼女の不安の全てだった。

僕がファミリーロマンスで受ける入学式の依頼は、毎年四月に集中する。そのほとんどがシングルマザーからの依頼だ。理由は様々で、離婚、死別、未婚の出産。でも、依頼のきっかけはいつも似ている。子どもが「お父さんは来ないの?」と聞いた。その一言だ。

小山さんの場合、悠太くんには「お父さんは遠くで仕事をしている」と伝えてあった。嘘だ。でも、六歳の子どもにどう説明すればいいのか。正解なんてない。小山さんは何ヶ月も悩んで、最終的に僕たちに連絡をくれた。

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当日、校門の前で合流したとき、悠太くんは僕の顔を見上げて「おとうさん、来てくれたの」と言った。目がまん丸だった。僕は「当たり前だよ」と答えた。手をつないだ。小さくて、温かい手だった。小山さんは少し後ろを歩きながら、何度もハンカチで目を押さえていた。

あの「当たり前だよ」は嘘だったのか。僕にはわからない。でも、あの手の温かさは本物だった。

体育館の中で僕が気をつけていること

入学式の体育館には、独特の空気がある。新しいランドセルの匂い、緊張した子どもたちのざわめき、カメラを構える保護者たちの熱気。その中に紛れて、僕は「悠太くんのお父さん」として座っている。

気をつけることは山ほどある。まず、他の保護者に話しかけられたときの対応。「お仕事は何を?」「どちらにお住まいですか?」。事前に小山さんと打ち合わせた設定がある。職業、住んでいる場所、趣味。全部頭に入れてある。矛盾があってはならない。入学式は始まりの日だ。ここでボロが出れば、六年間ずっと尾を引く。

それから、写真。集合写真に僕が写ることのリスク。後から「あの人、誰だっけ」と言われる可能性。だから僕は撮影のタイミングを見計らって、さりげなくフレームの端にいるようにしている。メインに写るのは、小山さんと悠太くんだ。あくまでも。

もうひとつ、いちばん大事なこと。僕が感情を入れすぎないこと。悠太くんが「入学おめでとう」と呼ばれて立ち上がったとき、胸が熱くなる。なるに決まっている。でも、僕は本当の父親ではない。涙を流す権利が僕にあるのかと、毎回考える。考えながら、それでも少し目が潤む。そういう仕事だ。

「片親」という言葉が持つ暴力性

僕がこの仕事を通して強く感じていることがある。「片親」という言葉の残酷さだ。

入学式の依頼をくれる母親たちの多くが、この言葉に傷ついた経験を持っている。保育園の先生から「片親家庭ですから」と言われた。義理の親から「片親で育つ子は」と言われた。ネットで「片親パン」という言葉を見た。どれも悪意がなかったかもしれない。でも、言葉は刃物だ。悪意がなくても切れる。

ある依頼者の田中さんは、こう言った。「両親が揃っていることが『普通』で、そうじゃないことが『欠けている』みたいに扱われる。私は何も欠けていない。ただ、一人で全部やっているだけなんです」。僕はその言葉を忘れられない。

入学式にお父さんがいないこと。それ自体は、本来なら何の問題もないはずだ。でも、日本の学校行事は「両親が揃って参加する」ことを暗黙の前提にしている。保護者席は二人分。家庭調査票には「父」と「母」の欄がある。書類ひとつ、椅子ひとつが、シングルマザーに「あなたは足りていない」と伝えてくる。

僕が代わりにその椅子に座ることで、問題は解決するのか。しない。根本的には何も変わらない。でも、あの日あの場所で、悠太くんが胸を張って座っていたこと。小山さんが安心して式を見届けられたこと。それは確かにあった事実だ。

シングルマザーの「頼れなさ」という孤独

依頼の電話で、母親たちがよく口にする言葉がある。「こんなことを頼んでいいのかわからなくて」。この一言に、全てが詰まっている。

シングルマザーの多くは、助けを求めることに罪悪感を覚えている。自分が選んだ道だから。自分の責任だから。人に迷惑をかけたくないから。そうやって全部を一人で抱え込む。仕事、家事、育児、学校行事、体調不良の子どもの看病、PTAの役員。全部だ。

僕たちに依頼が来るのは、その我慢が限界に達したときだ。あるいは、子どもの一言が最後の一押しになったとき。「なんでうちにはお父さんがいないの」。この問いに、母親は一人で向き合わなければならない。夜中に、布団の中で、一人で。

ファミリーロマンスへの依頼は、入学式だけではない。授業参観、運動会、父の日の工作。学校行事のたびに「父親の不在」が可視化される。そのたびに母親は考える。どうしよう。どう説明しよう。子どもを傷つけたくない。でも嘘はつきたくない。その葛藤の先に、僕たちがいる。

僕は便利屋ではない。最後の砦でもない。ただ、あなたは一人で全部やらなくていい、と伝えたい。それだけだ。

午後の入学式、もうひとつの家族

その日の午後、僕はネクタイをえんじ色に替えて、別の小学校に向かった。二件目の依頼者、佐藤さんは四十一歳。娘の美咲ちゃんの入学式だった。

佐藤さんのケースは少し違った。離婚した元夫は存命で、連絡も取れる。でも、来ない。来てほしいと頼んだが、「もう関係ない」と言われた。佐藤さんは怒ってはいなかった。諦めていた。諦めることにも、体力がいる。

美咲ちゃんは事前に「今日来るお父さんは、お母さんのお友達のおじさん」と聞かされていた。佐藤さんは嘘をつきたくなかったのだ。だから美咲ちゃんは、僕のことを「おじさん」と呼んだ。「おじさん、ランドセル見て。赤いの」。僕は「すごくかっこいいね」と言った。美咲ちゃんは笑った。

帰り道、佐藤さんが言った。「美咲が楽しそうでよかった。それだけでいいんです」。その「それだけでいい」の裏に、どれだけの感情が折り畳まれているか。僕には想像することしかできない。

二つの入学式。二人の母親。二人の子ども。どちらも、誰かに「普通」を求められて苦しんでいた。でも、普通って何だろう。両親が揃っていること? 笑顔でいること? ランドセルが新品であること? 僕にはわからない。わからないまま、この仕事を続けている。

桜が散った後も、家族は続く

入学式が終わると、依頼者から丁寧なお礼のメッセージが届く。「ありがとうございました」「おかげで無事に終わりました」。僕は「よかったです」と返す。そして、少し考える。

この先、運動会がある。授業参観がある。卒業式がある。そのたびに依頼が来るかもしれない。来ないかもしれない。小山さんが一人で行ける日が来るかもしれない。悠太くんが「お父さんがいなくても平気」と思える日が来るかもしれない。それが、僕の本当の望みだ。

僕に依存してほしくない。僕を使って、自分の足で立ってほしい。入学式の一日を乗り越えたことで、小山さんが少しだけ自信を持ってくれたなら、それでいい。

本当はこんなサービスはないほうがいい。父親がいない入学式が「かわいそう」と思われない社会。一人で子どもを育てることが特別視されない社会。そうなれば、僕の仕事は必要なくなる。でも、今日もまた電話が鳴る。「あの、入学式のことなんですけど」。その声に、僕は「はい」と答える。

四月の桜は、あっという間に散る。でも、入学式の朝に手をつないだ記憶は、子どもの中にずっと残る。それが本物かどうかは、僕が決めることじゃない。あの手の温かさを覚えている誰かが、いつか自分で決めることだ。

「僕に依存してほしくない。僕を使って、本当の人間関係を築いてほしい」

— 石井裕一